突っ走り書き

見せるほどのものでは..

説明するということ(宮台真司)

この動画の宮台先生の発言が心に残ったので書き起こした。

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もともとは「そもそも論」についての話だったが、自分は「説明すること」というテーマとして聞いていた。

ドイツでは古くからこども大学というプロジェクトがあって、大学の教員が地元の小学生に自分がやっていることを伝えるっていうのをやる。 ぼくも日本でこども大学のプロジェクトを始めています。 飛騨高山とかで始めていますけども、小学校4年生に喋るのね。 そうすると、こどもに喋ることが、あるいは何も知らない人間に喋ることがいかに重要かがよくわかる。 たとえば僕たちは概念を使って喋っているけど、こどもたちは概念を知らないからセンテンスに開いて喋るわけだよ。 ところが僕たちは概念のクリシェ(決まり文句)の中で自明視していることがあるだけど、それをセンテンスに開くと意外につながらないということがわかって、説明に苦労して、そこではじめて説明する大学教員の側が気付きを得るということがあるんです。 自明性、当たり前さっていうけど、英語だと obviousness と familiarity という言葉あるのね。 自明の理だというときは obviousness、ところが familiarity というのは慣れ親しんでいるわけね。 いわば概念の自動的な連結による決まり文句っていうのは慣れ親しみなんですよ。 自明の理じゃないんだ。 だからそれをセンテンスに開いてみると、それは familiar ではあったけどね、実は obvious ではないということがはっきりわかったりするんですよ。

obviousness と familiarity という2つの単語による事象の整理がとてもしっくりきた。 たしかに、振り返ってみると、概念(専門用語と読み替えてもいいと思う)を使って説明してしまっているときがあるかも知れない。 センテンスに開いて、論理構造で説明しないといけなかったんだな。